VRを通じた実験の新たな可能性 宇宙での食事がまずく感じられる理由を示唆
【▲ 図1: 今回の研究で使用したISSのVRを体験している、今回の論文著者の1人のGail Iles氏(Credit: Seamus Daniel(RMIT University))】

宇宙飛行士はしばしば、宇宙では食事がまずく感じることを報告します。食事は栄養補給やストレス解消など、心身の健康を保つために重要であるだけに、これは軽視できない問題です。しかし宇宙で実験を行うことの難しさから、これまで研究が難しい領域でした。

ロイヤルメルボルン工科大学のGrace Loke氏などの研究チームは、「VR(バーチャル・リアリティ)」は宇宙の環境を十分に再現できるのではないかと考え、実験を行いました。すると、国際宇宙ステーション(ISS)のVRを体験している被験者は、通常時と比べてバニラやアーモンドの匂いに敏感になることが判明しました。Loke氏らによれば、VRと通常時との比較で個人の嗅覚に変化が生じることを示したのは今回が初めてであり、宇宙の環境を再現する実験などで、VRが高度な実験装置の代わりになるかもしれないと、その可能性に言及しています。

また、今回を含めた複数の研究は、孤独感が食事をまずく感じさせている原因であることを示唆しています。Loke氏らは、今回の研究手法が宇宙だけでなく、老人ホームの入居者など、社会的に孤立している人々の栄養改善などにも応用されるのではないかと期待しています。

【▲ 図1: 今回の研究で使用したISSのVRを体験している、今回の論文著者の1人のGail Iles氏(Credit: Seamus Daniel(RMIT University))】
【▲ 図1: 今回の研究で使用したISSのVRを体験している、今回の論文著者の1人のGail Iles氏(Credit: Seamus Daniel(RMIT University))】

■宇宙での食事がまずい理由は未解明

私たちが毎日摂る食事は、栄養摂取という生存に必須な行為であるだけでなく、心身の健康を維持するために重要な行為でもあります。そして、例え同じメニューであっても、状況によって味の感じ方が異なることは多くの人が経験していることでしょう。例えば巡航高度を飛ぶ旅客機の中は、食事がまずく感じる傾向にあります。これは機内の空気が乾燥しており、地上と比べて気圧も低く、常に聞こえるエンジンの騒音によって味覚や嗅覚の機能が低下しているためであるという説が有力です。このため機内食は味付けを濃くすることや、スパイスなどの匂いの刺激を強めにする工夫が行われています。

では、さらに上空である宇宙にいる人々ではどうなのでしょうか? 興味深いことに、宇宙飛行士も地上と比べて食事がまずく感じることを訴えています。ただし、無数にいる旅客機の乗員乗客と比べ、宇宙飛行士はその数が少ないことから、はっきりとした原因は分かっていませんでした。

原因として良く言われる仮説は、無重力状態に置かれたことによる鼻詰まりです。人体にある様々な体液は、何もしなければ重力に引かれて落ちてしまいます。このため人体には、体内に重力に逆らって体液を移動させるポンプシステムがあります。しかし、重力と遠心力が釣り合う無重量環境では、このポンプシステムが逆効果となり、体液が上半身へ過剰に移動してしまいます。この時に宇宙飛行士は様々な症状を経験しますが、その1つが鼻腔に液体が溜まってしまう鼻詰まりです。鼻詰まりは匂いを感じにくくなるため、食事がまずく感じる理由だと考えるのは妥当と思えます。

このような体液のアンバランスは、個人差があるものの、数日から数週間で解消されます。解消された後の食事が美味しく感じるならばこの仮説は成立するかもしれませんが、実際にはこの期間を過ぎても、宇宙飛行士は相変わらず食事がまずいと報告しています。このため、鼻詰まりを原因とする仮説は誤っている可能性があります。

ただし、宇宙飛行士の数が少ないというサンプル数の不足や、宇宙の環境を再現した実験を行うことが困難であるという理由から、これらの仮説を検証することはこれまで困難でした。

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■宇宙を体験するVR中で嗅覚の変化があることが判明

Loke氏らの研究チームは、「VR(バーチャル・リアリティ)」が宇宙における実験の代替となるのではないかと考え、研究を行いました。過去に行われた別の研究によれば、VRはMR(複合現実)や没入型デジタル環境と比べて没入感が高く、より “リアル” に感じるという結果があります。その一方でVRは、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)を装着する必要があるため、現実に存在する物体との相互作用が制限されます。例えば、VRを体験しながら食事の味を評価するという実験は困難です。

そこでLoke氏らは、食品の風味を測る代わりに、VRを体験中の嗅覚が、通常時と比べて変化するのかを調査しました。実験では、被験者が目を完全に覆うHMDを装着し、ISSの環境を再現したVRを見せ、疑似的なミッションの最中に匂いを嗅がせ、感じた強さを評価する形式で行われました。

【▲ 図2: 今回の実験で使用したISSのVRの様子。(Credit: Grace Loke, et al.)】
【▲ 図2: 今回の実験で使用したISSのVRの様子。(Credit: Grace Loke, et al.)】

被験者が体験したVRは、ISS内の狭く閉鎖的な構造と、内部で聞こえる騒音が再現され、また、無重力状態であることを示すために浮遊物がいくつか置かれています。被験者がこのVRを体験中に、研究者は匂いを染み込ませた木綿を被験者の顎の高さに置きます。被験者はこの時に感じる匂いの強さを、VR上に表示したアンケートを通じて評価します。先入観によって匂いの評価に影響が生じないよう、様々な種類の匂いをランダムな順番で嗅がせたほか、最終的な評価に使用するバニラ、アーモンド、レモンの匂いに加え、無関係な臭いであるローズマリー、ワサビ、ハチミツなども用意されました。

54人の被験者(※1)による実験を行ったところ、興味深い結果が得られました。被験者は、ISSの環境に置かれていた時に、バニラやアーモンドの匂いを通常よりも強く感じたことを報告しました。一方で同じく評価に加えられていたレモンについては、通常時と大きな変化は見つかりませんでした。バニラとアーモンドの匂いに共通する分子としてベンズアルデヒドが含まれているため、この匂い成分に敏感となった可能性があります。

※1…内訳は男性31人・女性23人、年齢は24.5±3.9歳です。個人差を見るための行動研究においては、被験者の数は30人いれば十分であるとされています。

またほとんどの被験者は、ISSの体験をしている際にある程度の孤独感を報告しました。これは興味深い結果を暗示します。というのは、クリーンルームで長期間作業を行っている人や、南極で調査を行っている研究員に対する研究では、嗅覚の低下が報告されているためです。今回の研究と過去の研究で調査された人々には、全て孤独感というキーワードが共通しています。確かに、今回の研究は特定の匂いに敏感になるという、過去の研究とは真逆の結果が得られています。しかし、香りは食品の風味に影響を与える要素である以上、嗅覚の変化によって食事をまずく感じるという点で同じ結論が得られる可能性があります。

■宇宙以外への利用の可能性も

今回の研究は嗅覚を対象としており、宇宙で食事がまずく感じる原因を直接的に突き止めたものではありません。ただしLoke氏らによれば、VRと通常時との比較で嗅覚に変化が生じることを示したのは今回が初めてであり、孤独感による嗅覚の変化が食事のまずさに関わっている可能性を示したという点では興味深い内容です。またLoke氏らは今回の研究を通じて、次の可能性に期待しています。

今回の研究を含め、VRを通じた体験が五感に影響を及ぼす可能性を示す研究は複数あります。Loke氏らは、宇宙などの特殊な環境における人体の影響を調査する研究を行う際に、高度な実験設備を用意せずとも、VRがその代替になる可能性に期待しています。火星有人探査ミッションのような、長期に渡る宇宙ミッションが計画されている昨今、食事への悪影響は宇宙飛行士の心身の健康を保つ上で無視できない課題です。VRは、このような課題を検証する際に、簡単に実験できる手段として使用される可能性があります。

また、今回を含む複数の研究は、孤独感が食事のおいしさの評価に影響を与える可能性を示唆しています。もしその場合、老人ホームに入居している人など、社会的に孤立している人々についても、同様の影響を受け、栄養状態が悪化しているおそれがあります。Loke氏らは今回の研究が、社会的に孤立している人々の栄養状態を改善する方法の探索に役立つことを期待しています。

 

Source

  • Grace Loke, et al. “Smell perception in virtual spacecraft? A ground-based approach to sensory data collection”. (International Journal of Food Science and Technology)
  • Will Wright. “Food aroma study may help explain why meals taste bad in space”. (Royal Melbourne Institute of Technology)

文/彩恵りり 編集/sorae編集部