今から20年前の1994年2月4日、宇宙開発事業団(NASDA)と三菱重工が開発した、H-IIロケットの1号機が打ち上げられた。日本が独力で大型の液体燃料ロケットを造ったという意味でも、また打ち上げ能力が当時の世界水準に追いついたという意味でも、H-IIは偉大な、歴史に残るロケットとなった。

H-IIの検討は1982年に始まった。1982年といえば、H-IIの先代に当たるH-Iですらまだ完成していないころだ。H-Iは静止軌道に550kgの衛星を打ち上げられる能力を持っていたが、当時の通信衛星の要求からすればまだ少なく、さらに1990年代になればその4倍、2tの衛星を打ち上げるだけの能力が必要になると予想されており、H-Iよりもはるかに強力な、まったく新しいロケットを造る必要に迫られていた。

開発にあたっては米国の技術を導入せず、日本の自主技術を使うことになった。かつて日本は、十分な液体ロケットの技術を持っていなかったため、米国の技術を導入することでN-I、N-II、H-Iといったロケットを開発して運用していた。しかし、米国から導入した技術は改良や調査ができない、いわゆる「ブラックボックス」であり、日本のロケット技術者の間では「いつかは国産でやりたい」という機運が高まっていた。また同時に、米国が技術の根幹の部分を握っているということは、日本のロケットの存在が米国にとって都合が悪くなれば、いつでも押さえつけられてしまうという危険性もあり、その枷から抜け出す意味でも自主開発は意味があった。

また、N-IからH-Iにかけては大きな打ち上げ失敗をしておらず、非常に信頼性が高かったが、前述のように打ち上げ能力は世界水準より低く、にもかかわらず価格は高いという問題を抱えていた。そこでH-IIでは信頼性の高さの維持や、打ち上げ能力の増加と同じぐらい、低価格化という目標が意識された。

1984年にはH-IIの形がまとまり、翌85年には予算も通り、いよいよ開発が始まった。

1986年の8月13日にはH-Iロケットの1号機の打ち上げに成功。検討を始めた当時は海の物とも山の物ともつかないと言われていたH-IIも、H-Iが飛び始めたことでいささか現実味を帯びてきた。N-IからN-II、そしてH-Iは基本的に米国の技術を中心にしてはいるものの、第2段エンジンや誘導装置など随所に日本の技術が入っており、H-IIの開発においてもその技術の蓄積は大いに役立った。例えば、H-Iの第2段で使われたLE-5は極めて性能が良く、米国から購入したいと打診されるほどのものであったが、H-IIの第2段には、そのLE-5を大きく改良し、性能をさらに上げたLE-5Aが使われている。

H-IIの開発における最大の肝は、第1段エンジンLE-7にあった。LE-7は日本が初めて開発する第1段向けの大推力エンジンで、かつ世界でもトップレベルの高性能が目指されており、当然ながら開発は難航すると予想され、そして実際に難航した。

試験では何度もトラブルに遭い、爆発も経験した。試験中の事故で亡くなった人もいる。開発期間も予算も超過したが、開発に当たった技術者は退かなかった。そして1993年2月、実際の飛行と同じ時間だけ地上で燃焼させる試験に成功し、LE-7が打ち上げに使えることが証明された。

H-IIを形作るための、すべてのピースがこれで完成した。あとはそれらを合わせ、そして実際に打ち上げるのみとなった。
(2)へ続く。

 

■JAXA|H-II ロケット
http://www.jaxa.jp/projects/rockets/h2/index_j.html