ソヴィエト連邦のロケット技術者で、一時期はソ連の宇宙開発を率いたことでも知られるヴァシーリイ・ミーシンの日記が、1月21日にインターネットで公開された。
ミーシンは1917年に生まれ、航空機の研究機関TsAGIや、モスクワ航空研究所(大学)などで学んだ後、卒業後には兵器開発に従事し、ロケット戦闘機BI-1の開発などにも携わった。第二次世界大戦後にはドイツでV-2ミサイルの視察、分析に従事し、ソ連で造られたV-2であるR-1の開発や打ち上げにも関わり、ロケット技術者としての頭角を現していく。やがてセルゲイ・コロリョフが第1設計局を立ち上げ、ソ連の宇宙開発を率いるようになると、その補佐役を務め、スプートニクやヴォストークの打ち上げにも深く関わった。
1966年にコロリョフが死去した後は、彼が率いていた第1設計局の主任の座を引き継ぎ、またコロリョフの遺産ともいえる有人月探査計画も引き継ぎ、ソユーズ宇宙船や超大型ロケットN1の開発を進めた。しかし彼の在任中にソユーズは2度の大きな事故を起こし、さらにN1はもともと無理のある設計であったことや、権力争いなどによって予算や人員が十分に与えられなかったことなどから、4機すべての打ち上げに失敗し、その責任を取る形で、1974年に第1設計局の主任の座を降りることとなる。
その後はヴァレンティーン・グルシュコーが跡を継ぎ、ソ連が有人月着陸を目指していたことは葬りさられた。ミーシンは半ば左遷される形で、母校でもあるモスクワ航空研究所で教鞭を執ることになり、宇宙計画の表舞台からは姿を消す。しかし1989年にグルシュコーが死去し、また折りしも当時、ソ連ではグラスノスチ(情報公開)が進められていたことから、ミーシンはソ連による有人月着陸計画があったことを公表した。その後も雑誌やテレビのインタヴューで証言をするなどし、2001年にこの世を去った。
ミーシンは長年日記を付けており、その原本は1993年、ミーシン自身の手によってサザビーズ・オークションに出品され、大富豪のロス・ペロー氏が率いるペロー財団によって落札され、現在も同財団によって所有されている。
そしてミーシンの死後、この日記の持つ史料価値は計り知れないことから、世界中の宇宙開発史家らが出版したいとの旨をペロー財団に申し出たところ、快く貸し出しを許可され、原本はモスクワ航空研究所へと送られ、コピー、記述の分析、そしてディジタル化が進められた。
今回公開されたのは、そのコピーのうち、1960年から1974年までを抜粋し、また記述などに補足が加えられたものである。日記は3つのpdfファイルに分けられており、下記Webサイトからダウンロードが可能となっている。
ミーシンは几帳面な人であったのか、日記には日付だけではなく、時刻や場所、周囲にいた人物名なども詳しく記されており、今後のソ連の宇宙開発史の研究に大いに役立つことが期待される。
この出版プロジェクトに関わったDmitry Payson氏は、「この『ミーシン日記』によって、宇宙開発史の研究がより一層進むことを願っています」と語っている。
■Mishin's Diaries
http://www.mishindiaries.com/