月面花粉症 (Lunar hay fever)」という言葉があります。もちろん月面に花粉は存在しません。原因となる物質は、月の表面にあるレゴリスです。月面を覆う砂であるレゴリスは、地球の砂とは異なり極めて細かく鋭い形状をしています。宇宙飛行士が月面で活動すると、身に着けていた宇宙服の表面にはレゴリスが付着し、船内に持ち込まれてしまいます。目に見えないほど小さな粒子であるレゴリスが、目、鼻、口、肺などの粘膜を刺激することで、まるで花粉症のようなくしゃみやかゆみをもたらします。これが、月面花粉症の正体です。

ところで、月の花粉症という言葉がアポロ17号の乗組員であるハリソン・シュミットによって造語されたように、この問題は半世紀前のアポロ計画の頃から指摘されていました。細かな粉塵による害は、塵肺をはじめとした健康リスクとしてよく知られています。レゴリスの害はその場限りの症状に留まらず、長期的に呼吸器を侵し、発がんリスクをもたらす可能性もあります。また、宇宙船の本体やエンジン、宇宙服といった精密機器の隙間に粉塵が入り込めば、故障や損傷の原因ともなります。

実際、アポロ計画では宇宙服が使用不能になる損傷を受けた事例があり、月面活動後にブラッシングによるレゴリスの除去が試みられましたが、静電気で付着したレゴリスの除去にはあまり効果を発揮しませんでした。それに、ブラッシングでは宇宙服の生地を傷つけてしまう恐れもあります。アルテミス計画など将来の有人月面探査では、アポロ計画よりも長期間の月面滞在が計画されているため、「宇宙服の洗濯」は現実的な課題となります。

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【▲ 図1: 月のレゴリスの模倣物質に液体窒素を注いだ様子。 (Image Credit: Wells, et.al. / Washington State University) 】
【▲ 図1: 月のレゴリスの模倣物質に液体窒素を注いだ様子(Credit: Wells, et.al. / Washington State University)】

ワシントン州立大学などのI. Wells氏などの研究チームは、宇宙服の清掃に最も優れているのは液体窒素の噴霧であるという結果を報告しました。低温の液体窒素を宇宙服に吹きかけると、液体窒素はレゴリスを巻き込みながら、より温かい宇宙服に加熱されて蒸発します。この時、噴霧された液体窒素の滴と宇宙服の生地との間には蒸発した気体の窒素によってわずかな隙間が生じ、熱の伝達が一時的に遮断されるため、滴はすぐには消滅しません。この現象は「ライデンフロスト現象」と呼ばれています。この状態になると、液体窒素の滴は生地の上を自然に移動し、お互いが合体することでレゴリスを除去しやすくなるのです。

液体窒素は、取り扱いのしやすさ、安全性、資源量など、コストの面で優れているため、宇宙服の洗浄に向いているように思えます。しかし、真空下で液体窒素を噴霧する場合の効果や、噴霧を繰り返すことで生じる生地へのダメージはこれまで未知数でした。そこで、Wells氏らは実物のほぼ6分の1サイズの黒いミニチュア宇宙服に、地球の火山灰や砂、人工の月面土壌など、月のレゴリスの代替として利用される物質を付着させた後、液体窒素を噴霧する実験を行いました。

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【▲ 図2: 実験に使用した6分の1サイズのミニチュア宇宙服。左から:模擬レゴリスを付着させた状態、固定ノズルでの液体窒素噴霧後、固定ノズルおよび手持ち型の噴霧器による液体窒素噴霧後の画像。液体窒素の噴霧によって白っぽい疑似レゴリスが除去され、黒い生地の色が現れていることがわかる。 (Image Credit: Wells, et.al. / Washington State University) 】
【▲ 図2: 実験に使用した6分の1サイズのミニチュア宇宙服。左から:模擬レゴリスを付着させた状態、固定ノズルでの液体窒素噴霧後、固定ノズルおよび手持ち型の噴霧器による液体窒素噴霧後の画像。液体窒素の噴霧によって白っぽい疑似レゴリスが除去され、黒い生地の色が現れていることがわかる(Credit: Wells, et.al. / Washington State University)】

すると、液体窒素は空気がある状態よりも、真空の方で優れたレゴリスの除去性能を発揮することがわかりました。ミニチュア宇宙服に異なる角度から液体窒素を噴霧する実験では、平均して98.4%の質量除去率が達成されました。これは、直径10µm (0.01mm) 未満のレゴリスを95.9%除去できることに相当します。

さらに、2回の洗浄を実施した後、再び塵を付着させてから液体窒素を噴霧する再除去試験では、2.66%の除去率向上が確認されました。これはおそらく、前回の洗浄で除去できずに生地の繊維にはまり込んで取れなくなった塵が原因だと考えられます。生地の目詰まりによって他の塵が繊維に入り込まなくなったことで、結果的に塵が除去しやすくなったためと推定されています。また、合計で233回の除去を行った結果、平均して75回目で生地の損傷が発生することもわかりました。アポロ計画で行われたブラッシング除去では、たった1回で生地が傷んだことを考えれば、これは極めて優れた結果です。

NASAからの助成金を受けて行われた今回の研究は、NASAによる学生向けのコンテスト「BIGアイデアチャレンジ (Breakthrough, Innovative and Game-changing Idea Challenge) 」で2021年に最優秀賞を受賞しました。ただし、この実験は今のところ普通の実験室で行われているため、重力の小さい月で同じような効果が得られるかまでは判明しておりません。Wells氏らは、微小重力における効果を調べる追加の実験のため、別の助成金を申請しています。今後実験が行われれば、液体窒素が宇宙服の洗濯に適するかどうかがよりはっきりするでしょう。

 

Source

文/彩恵りり

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