地球の衛星「月」は、一般的に「大気は無い」と説明されます。ただしこれは分かりやすさを優先した表現であり、実際には極めて薄い大気が存在し、原子が月の地面を “跳ね回っている” と考えられています。この薄いガス層は、月の表面にある岩石から飛び出した原子に由来するものが含まれていると考えられていますが、その正確な起源は不明のままでした。
シカゴ大学のNicole X. Nie氏などの研究チームは、アポロ計画で採集された月の土壌を分析することで、月の大気の約7割が流星(微小隕石)の衝突によって発生していることを突き止めました。この分析結果の背後には、月の土壌が数十億年かけて少しずつ変質した歴史が反映されています。今回の研究結果は、月よりずっと小さな天体に由来するサンプルを分析する際にも重要なヒントを与えるかもしれません。
■月には大気が “ほとんど” ない
「月」は、地球唯一の恒久的な自然衛星です。地球と月の大きな違いとして「月には大気が無い」とする説明をよく聞くでしょう。しかし実際には、月には大気が存在します。ただしそれは極めて薄く、大気圧にして地球の100兆分の1以下で、全部かき集めても10トンにしかなりません。地球の大気は約5000兆トンあることを考えれば、いかに少ないかが分かるでしょう。これほど少ないことから、ほとんどの文脈では無視しても差しつかえないため、通常は「月には大気が無い」と説明されます。
一方で、このような大気と言えるかどうかも怪しいほど薄いガスの性質に注目する研究の上では、月の大気は興味深い研究対象です。あまりにも希薄なため、大気を構成する原子は、他の原子と衝突することがほぼありません(※1)。このため原子は、月の地面を “跳ね回っている” と考えられています。このホッピング運動の速度は様々な要因で変化します。何かの拍子で減速し、地面にくっついて離れなくなることもあれば、逆に加速して宇宙へと飛び出してしまうものもあります。
※1…地球の大気分子は、1秒間に数十億回も他の分子と衝突しています。
原子が宇宙へ逃げたり地面に吸着されたりして失われてしまうことから、月の大気は常に補給されていなければなりません。一部は太陽からの原子やイオンの流れである「太陽風」に由来することが分かっていますが、間違いなく月の岩石や土壌に由来する大気成分も含まれていることが分かっています。なぜなら月の大気には、ナトリウムやカリウムのような金属原子が含まれているからです。
月の大気に含まれる金属原子は、比較的蒸発しやすい性質を持つために大気に含まれます。そしてこれらの金属原子は、元々は岩石や土壌に含まれる鉱物を構成していたと考えられます。原子が飛び出すには、金属原子にエネルギーを与える必要があります。ただし、この原子を飛び出させるエネルギー源が大きな謎でした。
これまでの研究から、太陽風以外に由来する月の大気は、流星の衝突による「衝突蒸発」と、太陽風に含まれるイオンの衝突による「イオンスパッタリング」によって発生すると考えられています。これは、アメリカ航空宇宙局(NASA)の月探査機「LADEE」の観測データから示唆されます。しかし、この2つのプロセスが2本柱なのは間違いないものの、観測だけで発生源の割合を特定することは困難です。なぜなら、地面から飛び出して大気となる原子の9割以上は、単に地面を跳ね回っている原子であり、元の情報を持っていないためです。
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■月の大気の約7割は流星の衝突によって発生することが判明
Nie氏らの研究チームはこの疑問を解決するため、アポロ計画で採集された月の土壌を詳細に分析する作業を行いました。カギとなるのは「同位体」と呼ばれる性質です。これは簡単に言えば、同じ化学的性質を持つために、同じ元素に分類される原子であっても、重さがわずかに異なるものがあることを意味しています。
重いボールは軽いボールより動かしにくいように、重い原子は軽い原子より動きにくくなります。これを月の大気に当てはめれば、重い原子は岩石や土壌からより蒸発しにくくなり、一度飛び出しても宇宙へと逃げ出しにくく、再び地面に舞い戻ってくることを意味します。月の表面は何十億年もこのプロセスを繰り返しているため、より重い原子が月の表面に残りやすくなるはずです。
Nie氏らは、衝突蒸発とイオンスパッタリングでは、重い原子の逃げ出す割合が異なるため、慎重に同位体の分析をすれば、どちらがメインの発生源なのかを突き止められると考え、分析を行いました。この実験は、貴重な月の土壌サンプルを酸で溶かして処理する過程もあるため(※2)、滅多にできる実験ではありません。
※2…フッ化水素酸、硝酸、塩酸を何段階かに分けて混合しました。
Nie氏らは、特に蒸発しやすい金属であるアルカリ金属のうち、カリウムとルビジウムを対象に同位体比率の分析を行いました(※3)。そして、衝突蒸発とイオンスパッタリングのそれぞれで発生しうる同位体比率の値を、実際の測定値と比較することで、どちらの作用が何割くらいを占めているのかを推定しました。その結果、土壌に残された同位体比率をよく説明できるのは、約7割が衝突蒸発、約3割がイオンスパッタリングという割合で月の大気が生成される場合であることが分かりました。言い換えれば、月の大気の約7割は流星の衝突によって発生する可能性が高いことになります。
※3…同じアルカリ金属でも、カリウムとルビジウム以外の元素は、月の大気の研究には適しません。リチウムは蒸発しにくく、ナトリウムとセシウムは天然に同位体が1種類しかないためです。
■他の天体のサンプル分析にも応用される研究
今回の研究結果は、月の土壌が何十億年にも渡るゆっくりとした変化を受けていたことを検証することができます。薄い大気の生成という極めて遅いプロセスを直接観測することはできませんが、結果として残る土壌の元素の同位体比率は、宇宙の真空に “野ざらし” にされた天体表面の変化を知るよい手掛かりとなります。
Nie氏らは、火星の衛星のフォボスのような、月と似たような環境条件にあり、将来的にサンプルリターンが計画されている天体についても、今回の研究手法を応用することで、何十億年もかかるゆっくりとした変化を知ることができると考えています。
Source
- Nicole X. Nie, et al. “Lunar soil record of atmosphere loss over eons”. (Science Advances)
- Jennifer Chu. “Scientists pin down the origins of the moon’s tenuous atmosphere”. (Massachusetts Institute of Technology)
文/彩恵りり 編集/sorae編集部