14世紀半ばから19世紀半ばにかけて、地球は平均気温が低い「小氷期」と呼ばれる期間にあったと推定されています。小氷期は様々な原因が推定されていますが、大規模な火山噴火がその1つであったことは間違いないと考えられています。大量の火山灰と火山ガスを放出する火山は、鉱物粒子や硫酸を大気の上層に送り込みます。これらは何年も落下することなく空中を漂い続け、太陽光を遮断・反射するため、地表の気温が下がるのです。
しかしながら、小氷期が始まるきっかけになったかもしれないと推定される、14世紀半ばよりも前の噴火記録ははっきりしません。過去の噴火を推定する時は、一般的に南極やグリーンランドの氷床に閉じ込められた火山由来の物質が調べられますが、この時代の氷床記録はあいまいなのがその理由です。
しかし、別の角度から大規模な噴火の発生時期を推定する方法もあります。それは「皆既月食」の観測記録を調べる方法です。
皆既月食中の月は地球の影に隠れますが、まったく見えなくなるのではなく、地球の大気で屈折した太陽光に照らされ、視認できます。しかし、大気中を漂う火山灰などの粒子は光を散乱させるため、特に波長の短い光は地表に届きにくくなります。このため、上空を漂う火山灰が多ければ多いほど、地表から見た皆既月食中の月の色は普段よりも赤みを増すことになります。火山灰の量が極端に多い場合は光そのものが届かなくなるため、皆既月食は真っ暗になります。
実際に、西暦1600年以降に起こった全ての大規模噴火では、噴火の3か月後から20か月後までの間に、真っ暗な皆既月食が観測されています。このため、皆既月食の色に対する言及と、火山の大規模噴火は関連している可能性があります。
火山灰が多い環境では、農業にとって重要な日光と気温の両方が不足することで、不作による飢餓が発生しやすくなります。このため、月食の原理が知られていて、その予測までされているにも関わらず、赤い皆既月食が不吉であると考えるのは自然なことだとも言えます。
特に、ヨーロッパや中東ではアジアと比べて色に言及する記述が多い傾向にあります。例えば新約聖書『ヨハネの黙示録』には、皆既月食を思わせる「月は全面、血のようになり」という記述があります。このように、皆既月食の色がその時代の文書記録で言及されているケースは珍しくありません。
過去の皆既月食がいつ起きたのかは計算で求めることができるため、文書の日付と照らし合わせることで、それが皆既月食に関する記述であると示すことは難しくありません。もちろん、皆既月食の色は他の要因 (例: 森林火災などによる大気汚染、夕焼けと同じ原理で地平線近くの月が赤く見える現象) でも変化する可能性がありますが、火山噴火の直後であれば関連性があると考えられます。
また、日付がはっきりしている皆既月食の記録は、氷床コアの調査ではあいまいだった噴火記録を補完することができます。つまり、中世の文書記録と氷床コアは、それぞれのあいまいな部分を補い合うことができるのです。
ジュネーヴ大学のSébastien Guillet氏らの研究チームは、ヨーロッパ、中東、アジアで西暦1100年から1300年にかけて記された文書記録を調べ、皆既月食について言及していると思われる記述を洗い出しました。そして、グリーンランドの氷床コアに含まれる硫黄の量から推定される大規模噴火の記録と照らし合わせることで、大規模噴火が起きた時期を推定しました。
Guillet氏らが分かりやすい記録として例示したのは、鎌倉時代の公家である藤原定家(1162-1241)が書いた日記『明月記』の記述です。明月記には1229年12月2日(寬喜元年11月15日)の皆既月食に関する以下のような詳細な言及があります。
即帰廬、漢雲遠晴、山月帯蝕出云々、小時皆既、細如暗夜云々、一時許後漸明、復抹以後殊以洞朗
『…それから私は帰宅した。空は遠くまで雲がなく、丘の上から月食中の月が現れた。しばらくの間、それは暗い夜のようにわずかな明かりであった。約1時間後、徐々に明るくなり、 (月食中に) 消えた後は特に明るくなった。』
今度月蝕皆既、先々雖皆既、如今度、月輪其在所不見、偏如消失蝕、古老未見、時刻又甚久、其変尤重云々、実可恐事也、於予七十年、実不聞不見、司天等又恐申云々
『今回の皆既月食は―これまでも皆既月食はあったが―、今回のように月の円盤が見えず、まるで月食中に消えてしまったかのようになるのは、年寄りも見たことがなかった。しかも、その時間は長く、変化も極端であった。まさに恐るべきものであった。私の70年の人生で、そのようなものは見たことも聞いたこともない。司天 (※陰陽道に基づく天文学の公的役職) はそれを恐る恐る話していた。』
このように、極めて暗い皆既月食に関する言及はいくつかの文献に記録されています。
西暦1100年から1300年までに発生した皆既月食は計64回で、記録が残っていたのは51回分でした。皆既月食中の月がほとんど見えなくなったと言及されていたのはそのうち6回で、全て氷床コアから推定される大規模噴火の直後に起こった皆既月食であることから、暗い皆既月食の観測時期と大規模噴火の時期は一致することが分かりました (※) 。
※…ここでいう「噴火の直後」とは、噴火から少なくとも3か月後の期間を指す。UE4の噴火の推定年代は1230年頃で、時期的に近い皆既月食は1229年末であるが、氷床コアから推定される年代は前後に幅があるため、単純に数字で前後関係を捉えることはできない。また、噴火した火山灰が成層圏を覆うまでは時間がかかるため、噴火とほぼ同時に遠隔地の皆既月食には影響しないと考えられる。
一方で、同じ期間に計7回発生した大規模噴火のうち2回については、特に皆既月食が暗かったという言及はありませんでした。そのような噴火の1つである1182年の噴火(UE1)は、氷床コアに含まれる硫黄量の分析から過去1000年間で2番目に激しい噴火であったと推定されているものの、噴火直後の皆既月食は特に暗くなかったと言及されています。
このことから、1182年の大規模噴火は硫黄の放出量と比べて、成層圏に到達した火山灰の量が少なかったと推定されます。このような噴火では噴出物がすぐに地表へと落下するため、地球の平均気温に及ぼす影響は少なくなり、影響を受ける期間も短くなります。気候への影響が限定的だったことは、木の年輪から推定される平均気温の研究とも矛盾しません。
そして、いくつかの噴火については、今回の研究で詳細な発生時期が絞り込まれました。例えば、1257年にインドネシアのサマラス火山で起きた噴火(サマラス噴火)は、過去1000年間で最も激しい噴火であったと推定されており、小氷期の引き金となった可能性が指摘されています。今回の研究でも、サマラス噴火の直後に当たる1258年の2回の皆既月食は、どちらも真っ暗であったことが言及されています。
今回の研究では、サマラス噴火は北半球の春から夏にかけて起きたと推定されました。これは、5月から10月にかけて噴火が起きたという別の研究での推定とも一致します。このように、皆既月食の記録と他の分析を組み合わせることで、過去に起きた大規模噴火の時期やその影響度をクロスチェックすることも可能です。
ただし、今回の研究は、あくまで文書ベースで皆既月食の色の言及を調べたものとなります。記録の正確性や、他の理由による色の変化にも気を付ける必要がありますし、皆既月食が起きた時に天気が悪ければ観測記録そのものが存在しなくなります。それでも、他のアプローチによる噴火の研究と矛盾しない結果が得られたということは、皆既月食が過去の噴火の規模を推定する1つのツールとして有用に使えることを示しています。
Source
- Sébastien Guillet, et.al. “Lunar eclipses illuminate timing and climate impact of medieval volcanism”. (Nature)
- Sébastien Guillet. “The unexpected contribution of medieval monks to volcanology”. (Université de Genève)
文/彩恵りり