火星表面を探査する火星探査車の活動により、これまでに「ゲール・クレーター」と「エンデバー・クレーター」の底にある物質からマンガン酸化物が発見されています。マンガン酸化物の存在は、水に加えて、ある程度の酸化環境が数十億年前の火星にあったことを示しています。この発見は、過去の火星に豊富な遊離酸素 (地球大気に含まれるようなO2分子) があったことを示す証拠ではないかと大きく注目されました。
しかし、かつて火星に豊富な遊離酸素を含む大気があったという説には異論もあります。発見されたマンガン酸化物の量は、マンガンと酸素の反応速度からは説明しにくく、遊離酸素よりも反応速度の速い酸化物の存在が示唆されるためです。その場合、マンガン酸化物は遊離酸素が豊富な大気の証拠とは言えなくなります。
ワシントン大学セントルイス校のJeffrey G. Catalano氏などの研究チームは、この異論について検証を行いました。火星の表面には塩素や臭素といったハロゲン元素が地球に比べて豊富に含まれています。ハロゲンと酸素が出会うと強力な酸化剤になるため、マンガン酸化物を生み出す有力な候補となります。一方、以前の研究ではハロゲン酸化物は考慮されず、遊離酸素もしくは紫外線が酸化反応の主体として考えられていたため、マンガン酸化物の生成におけるハロゲン酸化物の関与度は不明でした。
Catalano氏らは、ハロゲン酸化物である塩素酸塩と臭素酸塩を酸化剤として、水がある環境でマンガンの酸化反応が進むかどうかの実験を行いました。この実験のセッティングには、飲料水の塩素処理という工学的な知見が必要となりました。
実験の結果、塩素酸塩や臭素酸塩は、遊離酸素と比較して数千倍から数百万倍もの速度でマンガン酸化物を生成すること、生成されたマンガン酸化物はクレーター内で見つかったマンガン酸化物の鉱物である「エンスート鉱 (Nsutite) 」(※)と類似した結晶構造を持つことが確認されました。
このことに加えて、当時の火星の環境を考慮すると、塩素酸塩や臭素酸塩は活性酸素種のような他の強力な酸化剤よりも多くのマンガン酸化物を生成することがわかりました。そして何より重要な結果として、当時の火星の環境では、遊離酸素自体はほとんどマンガン酸化物を生成しないことも判明したのです。
この研究では、少なくともマンガン酸化物については、過去の火星に豊富な遊離酸素があったことの証拠にはならないことが示されました。遊離酸素がなかったと言い切るほどではないものの、遊離酸素があった可能性は低くなったと言えます。ただし、地球に酸素を必要としない生命がいるように、火星でも酸素を必要としない生命が誕生した可能性は十分にあるため、今回の発見が火星の生命を否定するわけではありません。
※… "Nsutite" の名称は、この鉱物が発見されたガーナ共和国のNsutaに由来しています。現地の言葉になるべく忠実なカタカナ表記は「ンスタ鉱」となりますが、本記事では英語圏での発音に因み「エンスート鉱」としました。「エヌスタ鉱」という記載も多く見かけますが、これは原語的発音に依らない記述のため、本来は誤りです。また、同じ鉱物に「横須賀鉱」と言う名称を当てている文献もあります。これはNsutaでの発見以前に横須賀で発見されたことに因む名称ですが、分析結果が不十分であることから正式な発見として認められず、正式な名称としては使えない古い名称です。
Source
- Kaushik Mitra, et.al. “Formation of manganese oxides on early Mars due to active halogen cycling”. (Nature Geoscience)
- Talia Ogliore. “Experimentalists: Sorry, no oxygen required to make these minerals on Mars”. (Washington University in St. Louis)
文/彩恵りり