H-II F1 Lift off
image credit: JAXA
 1993年の後半、鹿児島県種子島にある種子島宇宙センターに、H-IIロケット1号機の機体と、それに搭載される2機の衛星OREXとVEPが到着した。OREXは大気圏への再突入を行う実験機で、当時検討されていた日本版スペースシャトルHOPEの開発に活かすことを目的とし、VEPはロケットの軌道投入精度や、衛星が打ち上げ時に受ける熱や振動などのデータを取得することを目的としていた。
 H-IIの1号機は1994年2月1日7時ちょうどに打ち上げが設定された。しかし悪天候により延期、次に天気が好転する3日に設定された。ところが2日の夜、打ち上げ準備段階で、衛星フェアリング内部の衛星にきれいな空気を送り込むための、空調ダクトと呼ばれる部品が外れてしまった。これにより打ち上げはもう1日伸びた。
 4日朝、今度は発射台周辺の侵入禁止区域に貨物船が入り込んできた。これにより打ち上げは20分遅れ、7時20分に再設定された。
 7時16分50秒、つまり打ち上げまで190秒前、ここからコンピューターによる自動カウントダウンが始まる。コンピューターがロケットのあちこちに仕掛けられたセンサーの数値を監視し、一つでも規定からずれると、即座に、そして自動的にカウントダウンを中止させる仕組みだ。その10秒後、電源が外部からロケットの内部へと切り替えられた。
 打ち上げ6秒前、LE-7エンジンが始動した。徐々に推力を上げ、フル推力に達すると同時に、ロケットの両脇に装備された固体ロケットブースター(SRB)の下部で、機体を固定していたボルトが一気に弾け飛ぶ。H-IIを地上に縛りつけるものはもう何もない。そしてSRBが点火、まばゆい光と轟音と共に、H-IIロケット試験機1号機は種子島宇宙センターの吉信第1射点から離昇、大空へ向かって上昇を始めた。
 SRBの燃焼ガスが大空に巨大なアーチを描きながらロケットは飛行を続け、やがて雲に入って見えなくなった。離昇から1分37秒後にSRBの燃焼が終わり、さらに2秒後に切り離された。続いてフェアリングも投棄された。
 難産の末に造り出されたLE-7は順調に燃焼を続けていた。そして離昇から6分7秒後に無事に燃焼を終え、第1段と共に分離された。
 続いて第2段のLE-5Aエンジンに点火、ロケットをさらに加速させた。H-Iでの経験があったこともあり、ここまで来ると関係者の多くは少し気が楽になったという。LE-5Aによる加速で、ロケットはついに軌道速度に達した。LE-5Aは一度燃焼を止め、OREXを低軌道で分離。その後再びエンジンが点火され、離昇から27分56秒、VEPを静止トランスファー軌道で分離した。完璧な成功だった。後に、OREXには「りゅうせい」、VEPには「みょうじょう」という愛称が与えられた。
 検討開始から12年、日本のロケット技術はこのH-IIで、米国、ロシア、欧州、中国といった世界の強豪に追いつき、またある分野の技術に限れば追い抜きもしたのである。
 H-IIはその後、同年8月28日に試験機2号機の、また1995年3月18日には試験機3号機の打ち上げにも成功し、開発が完了。本当の意味でH-IIは完成し、4号機から本格的な運用に入った。しかしH-IIは、検討の段階から低価格化を考えていたにもかかわらず、しかしやはり高価で、商業衛星の受注を取れないでいた。
 もちろんそれは当のNASDAや三菱重工も意識しており、H-IIの1号機が上がった1994年から、改良型となるH-IIAロケットの検討を始めていた。もともとH-IIは部品一つまで純国産で造るという前提だったため、それを海外製に変えるだけで安くなる。また日本が初めて造る大型液体ロケットということもあって、ロケットの様々な部分で安全寄りの、語弊を恐れずに書けば「無駄」な箇所がたくさんあり、これらを削ぎ落とすことで安くなることが見込まれた。
 H-IIはその後、1997年11月28日に6号機が先に打ち上げられ成功、その次に5号機が1998年2月21日に打ち上げられた。しかし5号機では、第2段のLE-5Aエンジンが予定よりも早く燃焼を終了してしまい、搭載していた通信放送技術衛星COMETS(後に「かけはし」と命名)を計画通りの軌道に投入することができなかった。
 そして1999年11月15日、気象衛星「ひまわり」5号の後継機、MTSATを搭載したH-IIロケット8号機が打ち上げれた。しかし第1段のLE-7エンジンが燃焼中に壊れ、飛行が続けられないと判断され、地上からの指令によってロケットは指令破壊された。
 これらの事故を受け、NASDAはH-IIの運用を終了させ、H-IIAロケットの開発に注力することになった。H-IIで培った技術と、打ち上げ失敗から得た教訓が注ぎ込まれ、H-IIAは完成。その試験機1号機は2001年8月29日に打ち上げられ、現在まで22機中21機が成功している。6号機は打ち上げに失敗したものの、その次の7号機からは16機連続で成功しており、信頼性の高さも証明され、そして昨年9月には念願だった商業打ち上げも受注した。また派生型として、打ち上げ能力を高めたH-IIBロケットも誕生し、国際宇宙ステーション(ISS)へ物資を補給する輸送船「こうのとり」の打ち上げで活躍している。
 今後もH-IIA、H-IIBの打ち上げが次々と控えている。今月末にGPM主衛星を、また今年の末には「はやぶさ2」を打ち上げ、また「だいち」の後継機や、「しずく」の姉妹機GCOM-C1、「すざく」の後継機ASTRO-Hなども打ち上げの時を待ち続けている。
 そしてさらに、H-IIAをより使い易いロケットにするべく、「高度化」と呼ばれる改良も進められており、この改良型のH-IIAは2015年にデビューする予定だ。
 また現在、NASDAの後継に当たる宇宙航空研究開発機構(JAXA)や三菱重工では、H-IIAの後継機として次期基幹ロケットの検討が進められている。すでに開発することが決定されており、2014年度から開発が始まる予定だ。次期基幹ロケットでは、打ち上げ性能はH-IIAとほとんど変わらず、その一方で打ち上げ価格や設備維持に関わる費用を半額にすることが目指されており、またこれまでよりも短い期間で衛星を打ち上げられるようにすることで、衛星側にとって使いやすいロケットになる。開発が順調に進めば、2020年にも1号機が打ち上げられる予定だ。
 今になって、H-IIの開発が行われた時代の資料を読み返してみると、H-IIの登場によって、日本版スペースシャトルの打ち上げや大型の月・火星探査機の打ち上げといった華々しい未来が訪れるだろう、と書かれていたりする。残念ながらH-IIの時代にそれは叶えられなかったが、H-IIAやH-IIBにより、その一部は実現し、あるいは実現しようとしており、H-IIがそうした未来への扉を開いたことは間違いない。
 かつて、ツィオルコフスキー、ゴダード、フォン・ブラウン、コロリョフといった宇宙開発における先駆者たちは皆、宇宙へ行きたいという強い衝動に駆られ、ロケットという乗り物を発案し、造り出し、そして実際に宇宙へ飛ばした。思うに、そうした渇望こそが宇宙開発のような未知の世界に挑み続ける原動力であり、そしてそれはH-IIの開発においても、多くの関係者が抱いていたのではないだろうか。
 その渇望を失わない限り、いつかH-IIが思い描いていたような未来へ、そしてその先へ行ける日が必ず来るだろう。
■JAXA|H-II ロケット
http://www.jaxa.jp/projects/rockets/h2/index_j.html

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