エネルギア・ブラン、最初で最後の宇宙飛行から25周年

Buran after landing
Image credit NPO Molniya
ソ連末期、米国のスペースシャトルに対抗するために開発された、エネルギア・ブランの最初で最後の宇宙飛行から、今年11月15日で25周年を迎えた。
1969年、アポロ11の月面着陸の成功によって米ソの宇宙開発競争は一区切りを迎えるが、依然として冷戦は続き、両者は対立したままであった。米国ではアポロ計画以後の大規模な宇宙計画として、スペース・トランスポーテーション・システム、のちにスペースシャトルとして広く知られることになる宇宙機の開発を決定する。
スペースシャトルは人と荷物を、より気軽に、かつ安価に打ち上げられるシステムとして喧伝されたが、一方でソ連は、約30tもの強大な打ち上げ能力を持っていったい何を打ち上げるのかと訝しがった。ソ連政府は機械製作中央研究所(TsNIIMash)に検討を依頼、同所は科学衛星や商業衛星でそれほどの規模を必要とするものは考えられないとし、つまり軍事目的であるとの結論を下す。これは少なからず正鵠を射ており、シャトル計画には米国防総省も深く関与し、軌道上から偵察したり、ソ連の軍事衛星を鹵獲したりといった、軍事ミッションへの利用も検討されていたし、実際にスペースシャトルが行ったミッションの中には、未だにその内容が明らかにされていないものもある。
その検討結果を受け取ったソ連政府、とりわけドミトリー・ウスチノフ国防相は、スペースシャトルから核ミサイルが放たれるのではと危惧し、スペースシャトルに対抗するため同等の性能を持った宇宙機を開発すべきと訴え、1976年2月17日にはソ連共産党中央委員会によって開発が決定された。
これに対する科学者、技術者の反応は否定的で、より小型の機体の方が望ましいとの声が根強かった。実際1950年代から60年代にかけて、ミコヤン・グレビッチ(ミグ)設計局はスピラーリ、またTsKBM(旧チェロメイ設計局)はLKSと呼ばれる小型シャトルを検討していたが、結局それらはブランの開発決定に伴い、すべて中止された。
ブランの開発は、そのスピラーリの開発に従事していたグレプ・ロジノ-ロジンスキーが率いることとなった。それに伴い、ミグ設計局から独立、彼にはNPOモルニヤの長としての地位が与えられた。またブランはスペースシャトルとは異なり、オービターのエンジンで飛行するのではなく、ロケットに搭載される形で打ち上げられる。それを打ち上げるための強力なロケット、エネルギヤの開発は、ヴァレンティン・グルシュコ率いるNPOエネルギアが担当することとなった。
1978年にはおおよその設計が固まったが、このころからすでに外見はスペースシャトルと瓜二つであった。その理由については後述するように、スペースシャトルを模倣しようとした節が明確に見て取れる。
次世代のロケットとして華々しく宣伝されたスペースシャトルとは違い、ブランの開発は秘密裏に進められた。ソ連は公式には、短期間しか宇宙に滞在できないスペースシャトルよりも、サリュートのような宇宙ステーションの方が有益であると語ってさえいた。
しかし1982年6月3日、インド洋のココス諸島の近くに謎の物体が落下、オーストラリア海軍はP-3C哨戒機を派遣、そこでソ連海軍の船によって回収される小型シャトルが目撃され、ソ連もスペースシャトルの開発を行っているらしいということが広まった。現代ではこれはBOR-4と呼ばれる機体であり、スピラーリ計画の延長として、ブランの耐熱システムの開発のために打ち上げられたことが知られている。
12年もの開発期間を経て、1988年11月25日6時ちょうど(モスクワ時間)、エネルギア・ブランはバイコヌール宇宙基地の110/37発射台から離昇した。空を覆う分厚い雲を突っ切って力強く上昇を続け、計画通りにブランを分離した。その後ブラン自身のスラスターを使い、地球周回軌道へと入った。軌道高度は250km x 260km、傾斜角は51.6度で、これはミール宇宙ステーションへの飛行を意識したものであった。
地球を2周した後、ブランは逆噴射を実施、大気圏へ再突入した。強風の吹き荒れる中、ブランは9時24分42秒、バイコヌール宇宙基地内にあるユビレーイニィ空港へ着陸した。
ブランはその後、MIK-112と呼ばれる格納庫に収められ、以来ずっと幽閉され続けた。1993年にはNPOエネルギアのユーリー・セミョーノフ総裁、またボリス・エリツィン露大統領が、ブラン計画が中止されたことを明かした。ロシアに計画を続ける資金がなかったこと、また国防省が関心をなくしたことが理由である。ブランは5号機までの建造が計画されていたが、これも途中で建造が打ち切られた。またブランの有人飛行のために宇宙飛行士も訓練を行っていたが、結局ソユーズ宇宙船で飛んだだけであった。
2002年5月12日には、ブランが保管されていた格納庫の屋根が崩壊し、ブランは屋根もろとも瓦礫と化した。
バイコヌール宇宙基地は乾燥地帯に位置するため、寒暖の差は大きいが、雨の降る日は数えるほどしかない。そのため熱への対策は十分であったが、雨へはスポンジで水を吸収して晴れた日に蒸発させることで対処していた。ところが2002年は例年よりも降雨量が多く、スポンジで吸収できる限界を超えてしまった。またMIK-112はソ連が有人月着陸を目指して開発したN-1ロケットのために建てられた格納庫で、2002年の時点ですでに築40年以上が経過していたことも影響していよう。
頃合を見て改修作業が開始されたもののすでに手遅れで、元々の老朽化に加えて想定以上の雨を含んだスポンジの重さが掛かり、屋根は崩壊したと見られている。その際、改修作業に従事していた作業員7名(8名とも)も命を落としている。
その賭けられた期待からすれば、あまりにも無残な最期となった。
ブランの外見が米国のスペースシャトルと似ていることについては、巷ではソ連が真似をしたからだともっぱらの噂だ。その理由について、ソ連政府は初飛行後に「同じ性能を追求すると、航空力学的にその姿は自然と似るものだ」と弁明したりした。確かに、同じ時代に同じ性能を追求すると外見が似るということはありえる話ではあるが、ハッチの位置や窓の形、さらには内部の配置まで偶然に一致するということはありえない。
ただ、スペースシャトルほどの複雑なシステムは、単純にコピーしようとしてできるほど簡単なものではない。それは例えば、現在の米国に、設計図があってもサターンVのF-1エンジンのような高性能液酸/ケロシンエンジンを製造することができないのと同じことである。そもそも単純なコピーから得られる利点は、往々にしてあまりない。
またブランはスペースシャトルより優れている点もあった。シャトルは宇宙飛行士が搭乗した状態での運用が大前提であったが、ブランは無人で飛行することができ、さらに宇宙飛行士の脱出用として射出座席の搭載も計画されていた。軌道上での運用可能日数もブランの方が長い。
ブランはスペースシャトルと似せて造ることで、同じ性能を得ようとしたことは疑いようもないが、そのシステムはまったく異なっている。
■NPO MOLNIYA
http://www.buran.ru/

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